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2021.06.08

多文化共生社会に必要な学校教育における「やさしい日本語」〜一橋大学 庵教授インタビュー(後編)〜

多文化共生社会に必要な学校教育における「やさしい日本語」〜一橋大学 庵教授インタビュー(後編)〜

一橋大学 庵教授への取材記事後編です。

 

【目次】

 

教科書を理解できるようになることを優先して指導

―外国籍の子どもたちにとって、漢字の習得は難しいでしょうか?

母語に漢字がない人にとっては大人であっても同じことが言えますが、日本語習得においては、漢字はとても大きな障壁になります。

アルファベットなら26字を区別できればいいわけですが、漢字だと、小学校卒業レベルでも1000字を区別できなければならない。

しかも、日本の子どもは未就学児の段階から「山」や「川」などが何であるかがわかっていて、ひらがなでなら書ける。小学校に入って学ぶことは、そういう知っていることばを漢字で書く、ということだけです。

ところが、外国籍の子どもにとっては、わずか2〜3年の間に「“やま”がmountainなんだ」、「dogは“いぬ”なんだ」ということをまず覚えて、それをひらがなで書けるようになって、かつ、漢字で書けるようにならなければなりません。

 

―漢字習得の難しさは、子どもたちの教科学習にどのように影響するでしょうか?

漢字がわからないと、中学に入ってから教科書が読めません。教科書が読めないということは、文字を通して知識を得られないということです。

これは教科書や本だけでなく、インターネットでも同じで、文字を読めることは、知識の形成においては非常に重要です。これがいわゆる「CALP(認知・学習言語能力)」と呼ばれる言語能力です。

文字を通して情報をとることによって、自分が直接経験していないことを知識として得られる。これができないと、そのあと、いわゆる「勉強」ということができなくなります。
ですから、日本人の子どもと同じ順番ではなく、教科書に出てくる漢字から優先的に学ばせる、ということも考えなければなりません。そういう工夫をしたうえで、外国籍の子どもたちを支援する日本語教育を考える必要があると思っています。

 

―教科書に多く出てくる漢字を優先して学んだほうがよい、とは、具体的にはどのようなことでしょうか?

日本人の子どもが小学校で漢字を学ぶときは、単純な字形のもの、字の構成がはっきりしているもの、具体的な事物を表すものなどから順番に学んでいきます。しかし、実際には、そういう「牛」とか「川」とか「山」といった漢字は、国語以外の教科では、教科書にあまり出てきませんよね。

例えば、算数だったら「式」、理科だったら「太陽」などが出てきます。このように、教科書には、ある程度抽象的な事物を表す漢字が多く出現します。実際に調べたのですが、小学校で漢字を学ぶ順番と教科書に多く出てくる漢字の順番は一致しないということがわかっています。

例えば、小学校で学ぶ漢字1000字のうち、「歴史」という漢字は800字目に出てくるけれど、教科書にはすぐに出てくる。でも、20字目に出てくる「山」は、一度も教科書に出てこない、ということがあるわけです。

日本の子どもたちのように、小さいころからずっと日本語にふれてきたわけではない外国籍の子どもたちが日本人と同じ順番で漢字を学んでいたら、なかなか教科書を読めるようになりません。

 

―教科書を読めるようになるために必要な漢字は何か、ということを考える必要がありますね。

さらに、「勉強」のように、一つひとつの漢字がわかっていても、漢字が組み合わさると意味がわからないものもあります。実は、二つの漢字でできている語は、こういうものが多いです。

そうすると、「勉」と「強」と覚えてから「勉強」を覚えるのでなく、まず「勉強」から覚えたほうがいい、ということが言えます。私たちは、漢字は一字ずつ覚えて、二個組み合わさったときには、その足し算で意味がわかる、と考えがちですが、実は必ずしもそうではありません。一字ずつ学ぶ必要がないものはけっこうあります。

ですから、「こういう順番で学んだら早く教科書に書かれていることがわかるようになる」ということを考えて、必要なものから学ばせることが必要です。

外国人にとっては、「山」と「歴」では、認識のしやすさに差がないかもしれません。もしかしたら、教科書でよく見ている「歴」のほうが覚えやすいかもしれません。ところが、日本語教育では、大人向けであれ、子ども向けであれ、日本人と同じ順番で漢字を教えているわけです。

 

「バイパスとしてのやさしい日本語」教育

―学校教育における「やさしい日本語」とは、子どもたちにとって本当に必要な日本語教育、ということでしょうか?

そうですね。いままでのやり方が最善とは限らず、実はその中に、漢字や文法など、いろいろと不必要なものがあるかもしれません。

まずはそういうものを見直して、小学校では「最低限これだけは必要」ということをやったうえで、最終的には、高校入学〜卒業くらいの段階で日本人と同じようなレベルにいける、ということを目指すべきだと思います。もちろん個人の努力は必要なので、そのためにはICTを活用した学習方法を開発したり、自分で独学できるようなツールを用意したりすることも必要です。

留学生と違って、子どもは明らかに時間が限られているので、日本人の子どもに追いつくためには、いままでのやり方を見直して、かなり抜本的にメスを入れながら日本語教育を新しく作っていく必要があると思います。

それが「バイパスとしてのやさしい日本語」が意味するところです。

 

─子どもの日本語教育では「時間が限られている」ということを意識する必要がありますね。

例えば、100メートル競争をしてゴールが同じ場合、日本人の子どもは50メートルの地点から、外国籍の子どもは0メートルの地点からスタートするようなものです。そうだとしたら、同じスピードで走ったら、絶対に追いつけません。

「途中で自転車に乗ってもいいよ」などと途中を抜かして、最後はだいたい一緒にゴールできる。つまり、全部日本人と同じようにはできないし、途中で抜けているところは追々自分で埋めていく必要はあるけれど、とりあえず高校卒業くらいまでの知識はなんとか持てるようにする、ということが必要ですね。

とりあえず日本人と同じようなところでゴールして、そこからは本人の努力次第ということです。努力すればなんとかなる、というところをまず保証するということが、「バイパスとしてのやさしい日本語」の目標値ではないかと思います。

 

―学校教育での「やさしい日本語」を実現するために、現状、どのような取り組みが行われているでしょうか?

新しい日本語教育のシラバスが効果的であることをエビデンスとともに示すためには、かなりの調査が必要になってきます。そして、シラバスをつくり変えて提案するためには、やはり教材をつくらなければいけません。

まだ完成はしていませんが、途中経過を報告しながら何年もかけて取り組んできているので、「やってみよう」という人がいればすぐにでも利用できるリソースは用意しています。

教科書はすでに2冊出版していて、実際に外国籍の子どもが多い学校で使ってもらいながら効果を調べています。いま2年以内くらいに3冊目を出すことを検討しているのですが、その3冊で学んだら、日本語の知識がゼロだった子どもが教科書を読んで理解できるようになる、ということを目標にしています。

 

「やさしい日本語」は、日本の子どもたちにとっても重要

―外国籍の子どもがクラスに在籍している場合、日本語で授業を行う教師は、どのようなことに気をつける必要がありますか?

例えば、国語の授業で「昨日、お赤飯を食べました」という文があったとします。この文の意味には、「辞書的な意味」と「慣習的な意味」の二種類があります。辞書的な意味では、「餅米とうるち米を混ぜて小豆で赤く色がついた食べものを食べた」というようなことですね。慣習的な意味では、「昨日、祝いごとがあった」ということです。

国語の読解では、こういう慣習的な意味を理解している必要があります。「子どもたちは知っていて当然だ」ということを前提にして、説明されずに済まされてしまいがちですが、母語が日本語ではない子もいる場合、わからないかもしれないことばは説明が必要です。

つまり、「日本人なら知っているはず」とか、「日本文化で育っていれば知っているはず」とかいうことを暗黙知にして、そのことを説明しない、ということはやめるべきだということです。「知らないのが当然だ」という前提に立つべきですね。

「文化的背景を共有していない人の目線から見て、説明すべきことはないか」ということを考える必要があるのではないかと思います。

 

―そのように、外国籍の子どもの目線から考えることは、日本人の教師や子どもたちにとっても良い影響があるでしょうか?

「となりのアブダラくん」(※1)という子ども向けの本があるのですが、自分とは違う価値観にふれることが重要だと知るには、とてもよい物語です。例えば、アブダラくんは、パキスタン出身でイスラム教徒なので、神社には入らない、というエピソードがあります。こういうことがなぜなのかを議論する過程で、自分たちの常識がすべてではないかもしれない、と思えるようになります。

あるいは、上履きについて考えてみましょう。なぜ日本の学校で上履きが必要かというと、教室をきれいにしておくため、といった理由が考えられます。しかし、それが本質的で絶対的な理由であれば、多くの国で上履きを使っているはずです。学校の外から来て、教室の中に入る、ということはどの国でも同じなのですから。では、なぜ日本では必要で、ほかの国では必要ないのでしょうか。

こういうことを、上履きを使わない国の同級生と一緒に考えてみる。上履きの良し悪しではなく、なぜ必要なのか、と疑ってみる。そういうことを経験することによって、自国の文化を見つめ直す機会になると思います。

 

―そのように考える習慣は、多文化共生の考え方にとって重要でしょうか?

「異文化が共存する」ということは、どちらかに一方的に合わせるのではなく、お互いに適当な「落としどころ」を決める、ということなんだろうと思います。そのためには、相手の文化的背景を知る必要がありますし、場合によっては議論することも必要だと思うんですね。

また、普通は、一方的にどちらかがいい、という話にはなりませんが、もし、日本の習慣がいいと思ったら、相手を説得することも必要になります。「説得する」ということは、実は、母語話者が母語で行うことの中で最も重要な能力・技術の一つだと思います。

相手を説得するためには、まず自分の意見を相手に伝えなければいけないし、相手にそのことを理解してもらわなければいけません。もし同級生の日本語力が十分でなければ、相手がわかるような表現に言い換えて、相手が理解したかどうかを確認する必要があります。

なぜ上履きが必要なのか、上履きがあったらどんないいことがあるのか、上履きがなかったらどんなまずいことがあるか、といったことを伝えて、自分の意見に同意してもらえるように説得する。「意見や感想を述べる」だけではなくて、相手が受け入れやすいような表現にするとか、相手の意見を取り入れるとか、そういうやりとりが必要になってきます。

これは、多文化共生のためだけではなく、コミュニケーション能力を高めていくことにもつながります。そして、母語の力を伸ばす教育機会にもなります。将来、例えば、商談で相手に自社の製品を売り込む、という場面でも応用できるはずです。

そういう意味では、「やさしい日本語」というものは、外国籍の児童などのマイノリティのためだけでなく、マジョリティにとっても重要だと思います。

 

―多文化共生社会を実現するためには、学校はどのようなメッセージや考え方を日本の子どもたち、その保護者に発信するべきでしょうか?

学校がどういうメッセージを出すかはとても大事だと思います。先生たちは忙しいと思いますが、まずは、学校の中でどういう取り組みが可能かということを調べることが必要かなと思います。先ほど赤飯を例に挙げましたが、そういう具体的な事例について考えたり注意したりするだけでも、かなり意識が変わるでしょう。

ただ、学校でやるべきことについて、もう少し方法論的・体系的に考えることも必要です。例えば、多文化共生や外国籍の子どもに関する課題について、教職課程の中でどういうふうに位置づけるか、ということですね。ことばの問題としてだけでなく、国語科や社会科といった教科指導に関わる問題として考える必要もあります。いま外国語活動で取り扱う対象は英語になっていますが、その外国語活動で多文化共生の考え方をどう位置づけるか、ということも、根本的には必要になってくると思います。

このように、多文化共生社会の実現は、学校教育の枠組みを全体として動かしていかなければ、なかなか大きな効果は出ないかもしれませんが、まずは、個別の事例について考えていきながら、やれるところからやっていく、ということが必要だと思います。例えば、課題図書に「となりのアブダラくん」を入れて子どもたちに読んでもらう、ということだけでもけっこうインパクトがあるのではないでしょうか。

 

おわりに:多文化共生社会に欠かせない「やさしい日本語」

日本には、日本語指導を必要とする児童・生徒(外国籍・日本国籍の両方を含む)が約5万人(2018年度時点)おり、ここ10年で1.5倍に増加しています(文部科学省, 2020)。

しかし、庵教授のお話からは、そのような子どもたちに対する日本語教育は、決して成功してきたとは言えず、抜本的な改革が必要であることがわかります。

庵教授が提唱する「バイパスとしてのやさしい日本語」とは、「外国籍の子どもたちにとって本当に必要なことは何か?」を追求した日本語教育です。従来の留学生を対象とした日本語教育や日本人向けの漢字学習方法を見直し、まずは教科書を理解できるようになることを優先する。そして、日本の子どもたちと同じ土俵に立って進学や就職に挑めるようにする教育です。

それは、社会の少数派である彼ら一人ひとりの将来にとってだけではなく、日本社会全体にとっても極めて重要なことです。日本語という障壁によって彼らの進学・就職の選択肢が限られている限り、いくら日本に住む外国人が増えたとしても、人口減少によるさまざまな問題を解決することはできないからです。

また、学校教育における「やさしい日本語」では、日本語を使うときに、日本では当たり前になっている考え方が含まれていないかを確認することも必要です。「相手は知らないかもしれない」ということを想定して説明したり、自分の文化を理解してもらうために伝え方を工夫したりすることは、外国籍の子どもたちだけではなく、日本の子どもたちにとっても、コミュニケーション能力を高めるために重要な経験になります。

日本は、大多数の人が日本語を話すモノリンガル国家と言われてきましたが、そのような時代は変わりつつあります。これからは、さまざまな言語・文化的背景をもった人々と一緒に日本社会をつくっていくのです。そのような多文化共生社会を実現するためには、学校教育における「やさしい日本語」が外国籍の子どもたち、日本の子どもたち、双方の将来にとって必要なものであることを多くの人が認識する必要があるのではないでしょうか。

 

(※1)該当書籍:黒川祐子(2019).「となりのアブダラくん」. 講談社.

 

【取材協力】

庵 功雄教授(一橋大学 森有礼高等教育 国際流動化機構 国際教育交流センター)

一橋大学 庵教授のお写真

<プロフィール>

研究分野は、日本語教育、言語学、日本語学。大阪大学文学研究科(現代日本語学講座 専攻)で博士号を取得し、一橋大学留学生センター講師・助教授、同大学国際教育センター准教授、一橋大学国際教育センター教授を経て2018年8月より現職。「やさしい日本語」研究グループ( http://www4414uj.sakura.ne.jp/Yasanichi/ )代表者。日本在住の外国人やその子どもたちなど、言語的マイノリティに対する情報提供のあり方、日本語教育についても研究を行っている。

 

■関連記事

多文化共生社会に必要な学校教育における「やさしい日本語」〜一橋大学 庵教授インタビュー(前編)〜

在留外国人の増加と日本の子どもたちが出会う外国人の多様化

 

参考文献

文部科学省(2020).「外国人児童生徒等の教育の充実について(報告)」. Retrieved from

https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/31/06/1418054_00001.htm

 

 

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