日本の子供たちが、英語を身につけて ミライに羽ばたくために。

2020.10.12

テクノロジー時代に見えてくる異文化コミュニケーションの奥深さ~慶應義塾大学 井上教授インタビュー~

テクノロジー時代に見えてくる異文化コミュニケーションの奥深さ~慶應義塾大学 井上教授インタビュー~

機械翻訳の発展により、「もう英語を学ばなくてもよいのでは?」という議論がさまざまな角度から展開されています。今回は、この議論について、より広い視点から理解を深めるため、社会言語学を専門とする井上逸兵教授(慶應義塾大学)にオンライン取材を行いました。

テクノロジーによって変化した英語の使い方、そして、そのような社会で見えてきた異文化コミュニケーションの奥深さについて紹介します。

 

Photo by picjumbo.com from Pexels

【目次】

 

 

ビジネスで求められる「翻訳しやすい英語」

テクノロジー時代の最新技術といえば、誰もがAI技術を思い浮かべるのではないでしょうか。いまやGoogle翻訳などに代表される機械翻訳は、AI技術によって以前よりもかなり高性能になりました。

井上逸兵教授は、テクノロジーの時代において言語がどのように使われているか、といったことも研究テーマの一つにしています。まずは、ビジネス分野における機械翻訳の社会的影響について伺いました。

 

―「テクノロジー」と「英語」には、どのような関係があるのでしょうか?

製品を多言語展開する企業は、取扱説明書やマニュアルなどをまず英語でつくり、それを機械翻訳して多言語化しています。翻訳には人間の手を入れない、というやり方を多くの企業が実際にやっているんです。

外国製品の取扱説明書は、日本語が変なこともありますよね。これは、機械が翻訳しているからです。

大きな企業は翻訳のための人材を置いて手間をかけていますが、ほとんどの企業は、翻訳のクオリティを重視せずにコストを下げる、という発想になっています。ぼくは社会言語学が専門なので、それを良いとか悪いとかではなく、一種の社会現象として見ています。

 

―機械でいろいろな言語に翻訳するために、まずは英語で文章をつくるのですね。

それでどういうことが起きるかというと、各国の各社が「いかに機械翻訳しやすい英語を書くか」ということを考えるんです。このような英語は、専門用語で「Global Text(グローバル・テキスト)」と言います。

つまり、どんな言語にも訳しやすい英語のことです。人間が使っている言語というよりは、コンピュータが使う言語で、機械に適合させた英語のことなんですね。

実は、Global English(グローバル・イングリッシュ)というものは、こういう形で存在し始めているんです。これは、新しい社会言語学的な現象だなと考えています。

 

―「機械翻訳しやすい英語」を専門的に学んだ人材を置く企業もあるのでしょうか?

大企業には、そういう専門の部署などがあって、「テクニカル・コミュニケーション」(*1)と呼ばれています。日本テクニカルコミュケーション協会のシンポジウムで翻訳論に関する講演をしたことがあるのですが、参加者は、大学の教員や研究者ではなく、企業の人たちばかりでした。

しかも、このような協会が世界各国にあります。言語学者が知らないところでも言語に関する取り組みがこんなにあるんだ、とけっこう驚きました。

*1:テクニカル・コミュニケーションの定義はさまざまだが、例えば、「伝える内容あるいは方法が技術的または専門的なコミュニケーション、および、何かのやり方について説明するというコミュニケーション」と言われている(三波・中山, 2018)。

 

井上教授は、このような英語の使用状況を「人間の言語をテクノロジーに適応させようとしている」現象として捉えます。テクニカル・コミュニケーションでは、情報が迅速かつ正確に理解されることが重視されるため、文法や文章スタイル、文化など、異なる言語間におけるさまざまな特徴の違いを考慮しながら英文を作成できることが必要な能力の一つとされてきました(JTCA, 2019)。

テクノロジーの発展によって、従来とは異なる英語の使い方が必要になっている、という状況はとても興味深いものです。

 

機械翻訳を使いこなすための英語的な発想

では、より日常的な対人コミュニケーションにおいては、機械翻訳のおかげで英語をまったく学ばなくてもよくなるのでしょうか。井上教授は、機械翻訳を使いこなすためには「英語っぽい日本語」を使える必要があると考えます。

「英語っぽい日本語」とは、英語に翻訳されることを意識して、英語的な発想で話したり書いたりする日本語のことです。

 

―「英語っぽい日本語」を話したり書いたりするためには、どのようなことを学ぶ必要があるのでしょうか?

英語と日本語では、例えば、主語と動詞などの述部の関係が、場合によっては大きく違います。その発想がちゃんと身についていないと、「英語っぽい日本語」は書けないと思いますね。

おそらく、それだけ単独に勉強するのは余計遠回りで、結局、英語を勉強したほうが早いと思います。

 

井上教授によると、特に話しことばの場合には、文法的な違いに注意する必要があります。

例えば、「ヤンキースタジアム、どうやって行ったらいいですかね?」というくだけた言い方(方向を表す助詞「へ」を省略)をそのまま機械で翻訳すると、“Excuse me. Yankee Stadium, how should I go?” という不自然な英語になってしまい、このような話しことばにおける文法的な特徴を機械で正確に翻訳することはまだ難しい、ということです(井上, 2020)。

さらに、異なる言語の間には、文法的な違いだけではなく、ことばの使い方に表れている文化的慣習の違いがあります。このことは、井上教授が2020年7月にオンラインで実施したNPO法人地球ことば村総会記念講演「AI時代の英語力」にて、以下のような例を挙げて説明されています(井上, 2020)。

表|自然な日本語と英語っぽい日本語が英訳された場合の比較

 

「どうやって行けばいいでしょうか?」という日本語は、主語が「私」です。しかし、英語で相手に何かを依頼するときには、模範的な英訳のように、Can you〜?などと、相手が主語になる場合があります。

そのため、機械翻訳のHow do I〜?でも意味は通じますが、ぶっきらぼうな印象を与えてしまう可能性があります。

井上教授は、英語の依頼表現には、相手の独立した意思を尊重する、というアングロサクソン的文化が表れており、対人的な配慮が必要な状況では、英語的な発想を知らずに機械翻訳を使うと、伝えたいニュアンスが若干異なってしまうことがある、と分析します。

「どうやって行けるかを教えてくれませんか?」という日本語は、実際にはあまり使わない表現です。しかし、上記の例のように、英語との言語的・文化的違いを意識して「英語っぽい日本語」を使うと、人間が翻訳した英語と機械で翻訳した英語がほぼ同じになることがわかります。

つまり、対人コミュニケーションで機械翻訳を使う場合も、伝えたいことを正確に理解してもらうためには、やはり相手の言語や文化を知っている必要があるのです。

 

日本ファンの間で好まれる“日本”が伝わる英語

ただし、日本語を英訳するときに日本語っぽさ(日本語の言語・文化的特徴)を残すことは、必ずしも「悪い」というわけではありません。井上教授は、ジブリ映画などの字幕翻訳を社会言語学的に分析する研究も行っており、コンピューターやインターネットなどの情報技術の発展によって、日本のアニメや映画の翻訳が変化しているそうです。

 

―なぜジブリ映画の字幕翻訳を研究されているのでしょうか?

2000年より前のジブリ映画の英語版は、ずいぶん元の意味とは違う訳し方をしていて、真逆の意味に訳しているケースもあります。調べてみると、かなりシステマティック(一定の原理・法則で整理できる)に違うことがわかりました。

例えば、1990年代の『となりのトトロ』英語版に登場するサツキやメイのせりふは、アメリカ人っぽい感じでした。それが2000年くらいを境に、もともとの日本語のテイストを残して英語に訳すようになっています(*4)。

世界中の日本ファンは、けっこうYouTubeなどを見て日本語や日本について勉強しています。そういうファンの人たちから「変だ」と言われ始めたんです。

*4:ジブリ映画の英訳は、2006年以降にすべて変更されている。

 

―例えば、どのようなせりふがアメリカ人っぽく英訳されていたのでしょうか?

『となりのトトロ』では、メイとサツキがお母さんのお見舞いで病院に行って、サツキがお母さんに髪をとかしてもらうシーンがあります。メイが駄々をこねて「メイも!メイも!」と言うのですが、英語版では“I want mine short, too.”(私もショートヘアにしたい)とまったく違うせりふになっているんです。

おそらく、英米文化では、小さい子どもであっても「私の髪もとかして」と相手の領域に入る(自分のために何かをさせる)言い方やわがまま(駄々をこねる)は好意的に受け止められないので、自分の希望や主張を言っている「私も〜したい」に訳されたのだと思います。

 

―英語では、相手の領域に入るような言い方をしないのですね。

実は、日本語のほうが直接的な言い方で、英語のほうが間接的な言い方をするんです。例えば、日本語の「おまえ、〜しないほうがいいぞ」というせりふは、“I wouldn’t〜”と「おれだったら〜しないよ」という間接的な言い方で翻訳されます。

そういう意味で、日本語をそのまま訳すと、英語ではきつい表現になる場合があります。

 

―ことばと文化には、どのような関係があるのでしょうか?

一番典型的な例は、「思いやり」だと思います。日本では、「そういうことをしたら〜ちゃんがかわいそうでしょう」、「相手の立場に立って考えましょう」という子育てをしていきますね。

でも、アングロサクソンの文化だと、親しい間柄でない限りは、相手の立場に立って考えること自体が相手の領域を侵害している、と考えられる傾向にあります。だから、「あなたのことを心配していたよ」とか「大丈夫?」と言われることをいやがる人が多いと思います。

日本人は、そんなにネガティブに捉えなくて、どちらかというといい意味でも言いますよね。それは、理解されにくいかもしれません。

 

― 日本人のほうが相手と距離を置くイメージがありますが、英語の文化でもそういう側面があるのですね。

「独立していたい」願望と「相手と関わりたい」願望は、どの文化でも、どの人間でも、両方もっています。相反するものが両面で動いていて、そのバランスが文化ごとに違うということですね。

アングロサクソン的文化の人は、相手のことを気遣っていますよ、というふうに相手の領域に入っていきたがらないし、入ってこられたくありません。でも、パーティーなどの社交的な場面では、みんなが立って歩き回りながらいろいろな人と関わり合う習慣がありますね。

このコミュニケーションの場面では相手と関わりたい願望のほうが勝つ、というような傾向が文化ごとにあると思います。

 

―字幕の英訳が「日本語っぽくない」とわかる海外の人たちは、日本文化を理解しているということでしょうか?

理解している人がだいぶ増えた、ということだと思います。20世紀のグローバル化は、ほぼアメリカ化でした。

でも、21世紀のはじめ4半世紀のグローバル化は、「コンピューターを介したグローバル化」で、GoogleがYouTubeを買収したのもこの時期でした。いまは必ずしもみんなが一方的に英語圏のほうを向いているのではなく、少なくともインターネット上の世界では、コンピューターを介してお互いに理解し合いし始めているのではないかと思います。

テクノロジーの変換期にはいろいろなことが起こります。社会全体がテクノロジーで変化しているところと連動して、そういうコンテンツ(映画の字幕翻訳)も変わってきていることは、社会言語学的におもしろいと思っています。

 

―たしかに、YouTubeでは、海外の人たちが日本のことを紹介する動画も見かけますね。

日本のアニメに外国のファンが勝手に字幕をつける「ファンサブ」もありますね。例えば、「彼は夢を見ていた」を普通は英語で “He was dreaming.” と言うところを “He was seeing a dream.” と直訳したような英語を使います。

ぼくの研究室にいるイギリス人の留学生に「英語のネイティブじゃない人が訳したんでしょ?」と聞いたら、「いや、英語ネイティブがわざとやるんだ」と言うんです。日本語を直訳したようなへんてこな英語ですが、そのほうが日本っぽい、ということなんです。

日本でも、洋画の日本語字幕は、日本語では絶対に言わなさそうなせりふがありますよね。これと同じことなのではないかと思います。

 

インターネットを通じて世界中に日本ファンが増え、あえて日本語っぽさを残した翻訳が好まれるようになったことからは、翻訳が異文化交流や異文化理解と密接に関わっていることがわかります。総務省(2020)によると、インターネットを通じて日本から外国へ流通するデータ量は、2001年から2016年にかけて165倍にも増えており、日本でも国境を越えた情報通信が急増しています。

また、世界中でやりとりされるデータ量の約6割を占める動画配信サービスの契約数は、2022年には22.7億になると予測されており、2015年と比べると5倍です。

このような状況から、海外の人々が日本の映画や動画を通じて日本文化や日本語にふれる機会はますます増えると考えられます。日本語や日本文化を理解するファンが増えれば増えるほど、「理解されやすい英語」だけではなく、「日本らしさを残した英語」で表現する力も求められるようになるかもしれません。

 

「正しさ」ではなく「違い」を意識する

正しい単語や文法で英語を話したり書いたりすることは、機械翻訳が補ってくれるようになってきました。しかし、グローバル化が進み、英語で情報を受け取る相手の反応が見えるようになったことで、正しい単語や文法だけでは情報がうまく伝わらない場合がある、という問題点がはっきりと浮かび上がりました。

英語とほかの言語の違い、それぞれのことばの背景にある文化的な違いを知ったうえで、相手がどのように理解するか、を意識して使う必要があるのです。

異文化コミュニケーションにおいては、英語的な文化に合わせて英語を使うか、日本語的な文化を残して英語を使うか、という選択肢がありますが、井上教授は、どちらが良い・悪いということではなく「生き方の問題」である、と考えます。どちらでもよいが、どちらを選ぶかによって相手の理解が変わる、という複雑なコミュニケーションは、人間だからこそできることかもしれません。

機械は、「このように訳されることが多い」という統計データに基づいて翻訳しますが、人間であれば、相手にどのように理解してもらいたいか、という想いをことばの使い方に反映させることができます。

いまは、誰もが気軽に動画配信サービスやSNSなどを使って、日本語のせりふや歌詞の英訳を確認したり、自ら英語で日本文化を紹介したりできる時代です。ぜひ、発信者の文化的背景や意図に注目しながら見聞きしたり、英語的発想と日本語的発想の違いを意識しながら自分で発信したりしてみましょう。

きっと、異なる言語の壁を超えて情報を伝え合うことの奥深さやおもしろさがより一層見えてくるはずです。

 

【取材協力】

慶応義塾大学 井上逸平教授のお写真

慶應義塾大学 井上逸兵教授

<プロフィール>

・慶應義塾大学 文学部 人文社会学科 教授(専門領域:英語学、社会言語学)

・慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程終了、文学博士(慶應義塾大学)

・慶應義塾中等部部長(校長職)、NPO法人地球ことば村・世界言語博物館理事長、日本英語学会評議員

 

■関連記事

外国語翻訳アプリの発展と、言葉を話すということ

 

参考文献

 JTCA(2019).「テクニカルコミュニケーター専門課程制度のご案内」. Retrieved from

https://www.jtca.org/seminar/0122_brochure2020.pdf

 

井上逸兵(2020, July 15). 「井上逸兵「AI時代の英語力」NPO法人地球ことば村総会記念講演」[Video]. YouTube.

https://youtu.be/kfSL49WEr7w

 

総務省(2020).「令和2年版情報通信白書」.Retrieved from

https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r02/pdf/01honpen.pdf

 

三波千穂美・中山伸一(2018).「初等・中等教育におけるテクニカルコミュニケーション知識・能力 ―大学におけるテクニカルコミュニケーション教育の改善に向けて―」.『情報メディア研究』, 17(1), 18-35.

https://doi.org/10.11304/jims.17.18

 

 

 

PAGE TOP