日本の子供たちが、英語を身につけて ミライに羽ばたくために。
2019.02.07
写真:Arian Zwegers/CC BY 2.0
「世界一幸せな国」として有名なブータンは、小学校からほぼすべての授業が英語で行われ、英語を流暢に話す若者が多いと言われています。欧米諸国の植民地になったことはなく、近年まで鎖国状態であったブータンの人々は、なぜ英語を話すバイリンガルになったのでしょうか。
【目次】
ブータンで話されている言語の数は、資料により異なりますが、Ethnologue(Simons et al, 2018)によると23言語。国民の8割は、古くからの民族分布に伴ってツァンラカ語(主に東部)、ゾンカ語(主に西部)、ネパール語(主に南部)のいずれかを母語としていますが、国語・公用語は、国民の約3割が母語としているゾンカ語です(Centre for Bhutan Studies & GNH Research, 2016)。
出典:Centre for Bhutan Studies & GNH Research(2016)
※資料を基にIBSグラフ作成。
上のグラフが示す通り、英語を母語とするブータン人がほとんどいないことは明らかであり、ブータン人の英語力は、TOEICスコアやEF英語能力指数のデータ集には受験者数が少ないためか掲載されておらず、世界や日本と比較してどの程度なのかは不明確です。
しかしながら、ブータンに関する研究論文(Dorjee,2014)によると、学校教育を受けたブータン人は皆バイリンガル(ゾンカ語、英語)またはマルチリンガル(ゾンカ語、英語、そのほかの現地語またはネパール語、ヒンディー語など)です。
ブータン国民はアジアで最も英語を話せる人々であり、「ブータン人の英語力は、オーストラリア人やアメリカ人の英語と同じくらい高い(IBS訳)」と述べる研究者もおり(Driem,2015)、ブータン政府観光局(2019)のホームページにも「英語もコミュニケーションの手段として、大部分のブータン人は話すことができます」と記載されていることから、少なくとも、ブータンは日本よりも英語を流暢に話す国民が多いと言えるでしょう。
ブータンは、北に中国、南にインド、と二つの大国に挟まれた小さな内陸国。日本の九州と同じくらいの面積ですが、人口は、九州で最も人口の少ない佐賀県(約82万人)にも満たない約73万人(NSB, 2018; 総務省統計局, 2018)です。
約50年前まで政治、経済、文化などあらゆる面において長年鎖国状態であったこと、そして、現在に至っても外国人が現地ガイドを伴わずに単独で観光することは制限されていることなどから、ヒマラヤ山脈の「秘境の地」として知られています。
隣国のインドをはじめ、英語を流暢に話す国民が多い国は、かつてイギリスなどの英語圏諸国に植民地として支配された歴史をもつ場合がほとんどですが、ブータンにはそのような歴史がありません。
では、なぜブータン人は英語を話すことができるのでしょうか?
地図データ©2019 Google, ZENRIN
ブータンの人々は、6歳から18歳まで(日本の小学生〜高校生に相当)、国語であるゾンカ語とともに、英語が必修科目であり、さらに、国語と環境科学を除く、ほぼすべての教科を英語で学びます。
ブータン政府の教育省は、すべての児童・生徒がゾンカ語と英語の両方を高い熟達度で身につけるべきであることを教育方針として定めています(Ministry of Education,2018a; Ministry of Education,2018;Dorji, 2016)。
日本人にとって、母語である日本語で教育を受けることは当たり前のことですが、ブータンでは、昔から外国語で授業を受けることが通常でした。
国民の8割以上がチベット仏教徒(Centre for Bhutan Studies & GNH Research, 2016)であるブータンでは、伝統的に、「教育」といえば、僧侶を目指す子どもたちが仏教の哲学や経典、精神修行を僧院で学ぶことであり、使用言語は仏典の言語であるチョーキー語でした。
非宗教的な、英語教育を含む近代的な教育を行う学校は、王室の子弟など一部の子どもを対象としたものが1910年代から、一般の子どもたちを対象としたものが1950年代から設立され始めますが、いずれも、近代教育の分野ではチョーキー語による教材が限られたため、安価で入手可能な隣国インドの教材が使用されました。
学校教師はブータン人ですが、ヒンディー語で書かれたインドの教材使用により、授業はヒンディー語で行われるようになります(平山,2016a;Driem,1994)。
このように約50年近く学校教育がヒンディー語で行われていたこと、ブータン国内で制作したテレビ番組や映画がない時代(2000年前後)からインドの番組や映画が放映されていること(Dorjee,2014)などにより、ブータンではヒンディー語を理解する人も多いと言われています。
1960年代になると、ブータンでは、ブータンとの関係を強めることにより中国を牽制しようとするインドの全面的な支援(開発計画の策定や実施、運営資金など)のもと、近代的な国家開発が始まります。
この際、開発予算の10分の1以上が教育の近代化のために割り当てられ、インフラ整備や農業に次ぐ力の入れようでした。
1962年には、学校の授業で使用される言語は、ヒンディー語から英語に変わります。1961年に国語に制定されたゾンカ語には近代的な知識や技術に関する用語がなく、さらに、高等教育=海外留学であったブータンにとっては、ヒンディー語よりも国際的な言語である英語のほうが「最も都合の良い言語」であると考えられていました。
また、インドへの依存から抜け出し、ブータン独自のアイデンティティを確立させようとしたことの表れだとも言われており、ブータンでは極めて合理的で現実的な理由により、「英語による学校教育」が始まったのです(平山,2014;平山,2016b;Driem,1994, Dorji,2016)。
ブータンの「英語による学校教育」は、わずか約50年とまだ短いものの、英語は、外交や政治・行政のみならず、メディアなどを含むあらゆる場面で、国内の共通語(リンガ・フランカ)や実質的な公用語として機能しています(Dorji,2016)。
この事実だけでも日本にとっては大変興味深いことですが、さらに、これだけ英語教育に力を入れながらも、国語であるゾンカ語やブータンの伝統文化を守ることに大きな力を注ぎ、ある程度の成功を収めているという点は注目に値します。
出典:Dorjee(2014)
※資料を基にIBS表作成
ブータンは「世界で一番幸せな国」としても有名ですが、英語教育に限らず、ブータンにおける教育方針は、1972年に第4代国王により提唱されたGross National Happiness/国民総幸福量(GNH)政策の中心に位置付けられています。
ブータンの研究機関(Centre for Bhutan Studies & GNH Research, 2016)による2015年度の調査では、91.3%の国民が「幸福」(*3)であることが報告されました。
また、GNH政策を反映させた教育制度・方針には、国語や伝統文化を守ることも重要事項として含まれており、世界各国の教育機関・教育者から注目を集めているポイントの一つです。
(*3) 幸福度の4カテゴリ①Deeply Happy(心から幸せ)、②Extensively Happy(大いに幸せ)、③Narrowly Happy(辛うじて幸せ)、④Unhappy(不幸せ)のうち、①〜③に分類された国民の割合。
国語であるゾンカ語は、仏教の経典やブータンの学術書に使用されてきたチョーキー語から派生した言語と言われており、「要塞(dzong)で話されている言語(kha)」という意味です。
ブータンの山岳地域には、古くから多くの要塞が建てられ、政治や軍事のみならず学術の中心地でもあったことから、ゾンカ語は、王族をはじめ、エリート軍人や教養のある貴族階級、政府・行政機関の人々によって話されてきました。
そのため、ブータンの国語にゾンカ語が選ばれたことは自然であり、ブータン政府は、ゾンカ語を国語に定めた際も、ほかの現地語の使用を禁じたり抑圧したりする意図はなく、仏教における慈悲の考え方により、言語の多様性を維持しようとする姿勢をとりました。
このような経緯・背景から、国語としてのゾンカ語は、別の現地語を母語とする少数派民族も含め、ブータン人のアイデンティティとして国民から支持されていると言われています(Driem,1994)。
ブータンの教育省(Ministry of Education,2014)によると、ブータン人児童・生徒の約7割が「英語を学ぶことは難しい」と感じています。
「ゾンカ語を学ぶことは難しい」と感じている児童・生徒が約5割であることと比較すると、ブータン人にとっても英語学習は決して簡単なわけではありません。
しかしながら、児童・生徒の85.6%が「英語を学ぶことが楽しい」、83.7%が「ゾンカ語を学ぶことが楽しい」と感じており、国際語と国語の両方に対して高い学習意欲を保っています。
また、以下のブータン研究者による報告からも、「英語」と「国語・伝統文化」を両立させようとするブータンのユニークさがわかります。
「ブータンの学生・生徒がキラやゴと呼ばれる民族衣装を着て登校し、仏壇に五体投地の祈りをしたあと、教室で英語によるディスカッションを行い、コンピュータに向かう姿は外来の訪問者には強烈なコントラストを与える。教育の場面において伝統と近代、文化とテクノロジーがここまで容赦なく隣り合う世界というものを少なくとも筆者は他に知らない。」
出典:杉本(2000)
さらに、同研究者(杉本,2000)が20歳前後の学生300名を対象に1999年に実施した調査の結果は興味深いものです。
学生たちは、1)伝統文化、2)道徳教育、3)国家象徴(国王や国家など)、4)宗教進行、5)科学技術、6)経済力、7)西洋文化、8)海外留学、8つの項目について、どれくらい重要だと感じているかを回答しました。
結果、学生の通学先は、ブータン伝統文化への志向が強い学校、ビジネスや実学志向が強い学校、教員養成学校など、多様であったにもかかわらず、どの学生の回答においても、ブータンの伝統に関わる1)〜4)のほうが、近代化に関わる5)〜8)よりも重要度が高かったのです。
また、「科学技術」は重要だと認識しながらも「西洋文化」に対する価値評価は比較的低く、さらに、このような価値意識の傾向は、出身地域や性別で比較しても大差がありませんでした。
尚、幅広い世代(15歳以上)・教養レベル・居住地域等のブータン人を対象にした国勢調査では、以下のグラフの通り、ほぼ全員が「ブータンの伝統的価値は重要だ」と考え、母語を流暢に話す力を維持していることがわかり、地方在住者と都市在住者との間にも差がありませんでした(Centre for Bhutan Studies & GNH Research, 2016)。
出典:Centre for Bhutan Studies & GNH Research(2016)
※資料を基にIBSグラフ作成。
※この調査における「伝統的価値観」とは、ブータン伝統の価値観、礼儀作法、行動規範などを指す。
出典:Centre for Bhutan Studies & GNH Research(2016)
※資料を基にIBSグラフ作成。
ブータン人は、ブータン人としてのアイデンティ、つまりGNHの価値観が道徳の授業のみでなく、国語や環境、社会、歴史などあらゆる教科の中で教えられます(Thinley, 2016)。
上記のデータは、ブータンの学生たちが子どものころから英語を身につけながらも、ブータン人としてのアイデンティティや国語、母語を決して軽視せず、近代化やグローバル化に対して盲目的に憧れるのではなく極めて現実的に考えていることの表れではないでしょうか。
ブータンにおける「英語による教育」は、ブータン人の英語力が国際的に高く評価される一方で、国語や現地語の存続、伝統的価値観・文化の維持など、さまざまな課題や問題点が指摘されています。
しかしながら、ブータンにとっての英語の価値は、グローバル化のためでだけでなく、伝統的価値観や文化を保護するための実用的なツールとしても捉えられています。
例えば、特に文字をもたない言語や無形の文化(価値観や考え方、道徳規範など)を守っていくためには、文字で記録することが不可欠であり、ブータンでは、文字をもつ現地語が限られること、各現地語よりも英語のほうが国内で広く普及していることから、現実的な手段として、記録言語に英語が選ばれています。
また、世界的に影響力のある言語、つまり英語で記録することは、ブータンの素晴らしさを世界に広め、情報を発信するための手段になっています(Thinley et al, 2013)。
ブータンの中学校では、英語でブータン伝承の説話を学ぶ時間を英語の授業に取り入れており、ブータンの中学校教師に聞き取り調査を行った研究では、ブータンの文化など身近なテーマや場面設定で英語を学んだ生徒のほうが、そうでない生徒よりも英語学習へのモチベーションが高かったという結果が出ました(Thinley et al, 2013)。
つまり、英語で自国の伝統文化を学ぶことは、自国の伝統文化を守り、その価値を国内や世界に発信する人材育成になり、さらに、英語学習のモチベーションを高める可能性があるのです。
日本人は、「英語教育」や「バイリンガル」と聞くと、欧米人のようになることや英語のネイティブ・スピーカーを目指そうとする傾向にありますが、ブータンと同じく、欧米諸国の植民地化により英語の使用を強制された歴史がないからこそ、「英語で伝統文化を守る」というような、英語に対する柔軟な考え方や価値の見出し方ができるはずです。
英語教育と国語や伝統文化、そのほかの教科を別物として切り離さず、幼少期からの教育でそれぞれを融合させて相乗効果を出そうとするブータンの政策。
「英語教育」と「国語教育」、「グローバル化の推進」と「伝統文化の維持」……一見相反するような課題に対し、どちらを選ぶかを議論するのではなく、どちらも実現させるためにはどうするべきかを議論し試行錯誤するブータンは、早期英語教育や英語で行う英語の授業などの是非で揺れる日本にとって、今後も注目するべき国であることは間違いありません。
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