日本の子供たちが、英語を身につけて ミライに羽ばたくために。
2018.12.19
「英語教育の早期化は、セミリンガルになるので危ない」という記事をインターネット上で目にすることがあります。
しかしながら、「セミリンガル」は子どもの人権を侵害する差別的な用語であり、バイリンガルの子どもたちに対する偏見や差別に繋がりかねない問題です。
【目次】
「セミリンガル」は、1960年代にスウェーデンで生まれた用語です。
スウェーデンは、かつては中世時代に近隣諸国を次々と自国の領土として獲得することで大国化したバルト帝国。特にフィンランドは、支配下に置かれた歴史が長く、1809年にスウェーデンから分割されます。
その国境が定められた地域は、古くからスウェーデン語とフィンランド語(*1)が行き交う多言語社会。国境のスウェーデン側に住んでいたフィンランド語を話す人々はスウェーデン国民となりますが、彼らのスウェーデンへの忠誠心は常に疑われ、国境近くの居住者が外国語であるフィンランド語を話すことは国防上の問題であるという見方が強まっていきます。
スウェーデン語とフィンランド語のバイリンガルであった彼らは、ついに、スウェーデン語のみで学校教育を受けることを強制され、1950年代半ばまでは公的な場面や書面におけるフィンランド語の使用も禁じられました。(Salö & Karlander, 2018; Alora et al., 2011)
フィンランド語を話す人々へスウェーデン社会への同化を求める社会的圧力が強まる中、フィンランド系スウェーデン人の学校教員ハンセゴード氏が一般公開の講演やラジオ出演、書籍の出版などを通じて「フィンランド語による学校教育も認められるべき」とスウェーデン社会へ訴えかけます。
そして、スウェーデン語によるモノリンガル教育を行う国の政策によって、フィンランド語とスウェーデン語のバイリンガルの子どもたちが両言語の能力が奪われている(*2)と主張し、そのような子どもたちを指して「セミリンガル」という用語を用いるようになったのです。(Salö & Karlander, 2018)
このように、「セミリンガル」は、言語学などの専門知識をもたない人が使用し始めた用語・概念でしたが、政治的主張を含んでいたことによってメディアを通じて話題になり、その理論が正しいかどうか科学的に実証される前に一般社会で広く知られるようになったのです。
(*1)この国境沿いの地域(トルネダーレン)で話されているフィンランド語は、方言の一種であり、正確には「メアンキエリ語」(「私たちの言語」という意味)と呼ばれている。
(*2)フィンランド語(メアンキエリ語)とスウェーデン語のバイリンガルの子どもたちは両言語の言語能力や知能が低く、情緒が不安定というハンセゴード氏の主張は、後述の通り、証拠に欠けると結論づけられた。
地図データ©2018 Google 日本
1970年代になると、セミリンガルは「危険」、「問題」、「不自由」、「障害」などという、よりネガティブな表現を伴って使われるようになりました。
このころ、フィンランド系スウェーデン人(*3)自身も、長年の社会的圧力の影響により、自分たちの母語を話すことは恥であるという意識が根付き、親は子どもにスウェーデン語のモノリンガルになることを望み、子どもたちは母語を家庭で学ばなくなりました(Alora et al., 2011)。
このような状況の中、スウェーデン語のモノリンガル教育に賛成する政治家や子どもの親たちは、「スウェーデン語と母語の両方で学んでセミリンガルになるよりは、スウェーデン語のモノリンガルになったほうがよい」と、それぞれの解釈で都合よく「セミリンガル」を使用するようになります。
母語を学ぶ機会が奪われることを問題視するための用語だったはずが、「二つの言語を学ぶこと」ひいては「二つの言語環境で育ったバイリンガルの子どもたち」を問題視するための用語として使われ始めてしまったのです。
一方、スウェーデンの学術界では、少数派言語を母語とする子どもたちがセミリンガルになっているという現象や、知能や情緒との関係性に対して疑念をもち反論する研究者たちが現れます。
これに対し、ハンセゴード氏は、自らの主張の正当性を表すため、子どもたちの母語やスウェーデン語の能力などが低いことを、ときには差別的とも捉えられるネガティブな言葉で表現しました。
同氏の当初の意図は、子どもたちの社会的権利や地位を向上させることだったはずです。実際に、スウェーデンの移民政策が同化主義から多様性を容認する複合主義へ変化したこと、今日の少数派民族が母語で学校教育を受けられるようになったことには、ハンセゴード氏が多大な貢献をしています。
しかしながら、少数派民族や移民の子どもたちを「セミリンガル」という障害者のように扱うことになってしまったことは、とても皮肉なことです。
「セミリンガル」は、学術界における激しい論争をきっかけに世界各国に知れ渡りますが、1980年代には、社会の少数派言語を母語とする人々への偏見を助長する恐れがあるとして、倫理的に使用が禁じられるべきだと批判されるようになりました(Salö & Karlander, 2018)。
現在は、「セミリンガル」は差別用語であるという認識のもと、代わりに「ダブル・リミテッド・バイリンガル」という呼称が使われています。
しかしながら、呼称が変化しただけで、その用語が含む意味合いは大きく変わっていないと言われており(宇都宮, 2014)、近年の学術論文の多くが用語を使用する際にはその意図や論文内における意味合いを説明するなどの注意を払っていることから、専門知識をもたない人が気軽に使用するべき言葉でないことは明らかです。
(*3)前述のトルネダーレン地域に住むメアンキエリ語を母語とする人々を指す。
「セミリンガル」は、差別的用語であるという側面のみならず、学術的根拠に欠ける概念であるという側面においても問題があります。
これまでに、バイリンガリズム研究の第一人者カミンズ氏の理論(*3)をはじめ、「セミリンガルになる」という現象を説明しようとする研究や、その要因を解明しようとする研究がいくつも発表されてきました。
しかしながら、それらはすべて、現象の存在や要因を実証するには十分な説得力がなく、中には、見当違いの考え方や調査方法もある、と結論づけられています(MacSwan, 2000)。
何をもって能力が低いとするのか、その能力をどう定義してどう評価するか、といった理論や研究手法の前提部分が十分に検討されておらず、統一された見解もないからです。
近年のバイリンガリズム研究者の一人、サラ・J・シン氏は、セミリンガルを「習得している二つの言語が未発達のように見える人々のことを言い表す、論争を招く用語」と説明しています(Shin, 2018)。
「見える」という表現を使用していることからも、「未発達」、「能力が低い」ということがいまだに実証されていないことがわかります。カミンズ氏と共同研究を行った中島氏も、未発達のように見える現象は生活環境や言語環境が変われば消えることから、「2言語の発達途上で起こるある一時期の現象を問題にして、バイリンガルではなく、ダブル・リミテッド(両方のことばの力が低い)であるなどと決めつけてしまってはいけない」と述べています(中島, 2016)。
(*3):「しきい仮説」や「発達相互依存仮説」、「BICS—CALP理論」。
日本語で発表されている「セミリンガル/ダブル・リミテッド・バイリンガル」に関する学術論文では、日本生まれ日本育ちの日本人ではなく、海外へ移住した日本人の子ども、国内における帰国子女や移民の子どもが研究対象になっています。
しかしながら、日本の一般社会では「セミリンガル」が拡大解釈され、早期英語教育やバイリンガル教育に関する議論の中で気軽に使用されます。
そのような教育を受けるのは社会の多数派である日本人であることから、社会的権利や偏見・差別といった問題を連想しにくく、「セミリンガル」という用語が差別的概念を含んでいることに気づくことができないのかもしれません。
文部科学省(2017)は、日本語指導が必要な児童生徒(*4)の受け入れ状況を1991年から毎年(2008年以降は隔年)調査しており、「日系人を含む外国人の滞日が増加し、これらの外国人に同伴される子どもが増加した」ことを調査理由として挙げています。
2017年に文部科学省が発表した調査結果によると、学校生活に必要な日本語力が不十分とされる児童生徒数(日本国籍を含む)は、2016年度で4万人を超え、10年間で1.7倍に増加しました。
さらに、以下のグラフが示す通り、その増加幅は外国籍よりも日本国籍(*5)の子どものほうが大きく(外国籍:1.5倍、日本国籍:2.5倍)、主な使用言語が多様であることから、すでに「日本人=日本語モノリンガル」ではなくなっており、「セミリンガル」が含む差別的概念に無頓着でいるべきではないことがわかります。
(*5):帰国児童生徒、日本国籍を含む重国籍の児童生徒、保護者の国際結婚により家庭内言語が日本語以外である児童生徒など(文部科学省, 2017)
(*4):「日本語で日常会話が十分にできない児童生徒」及び「日常会話ができても、学年相当の学習言語が不足し、学習活動への参加に支障が生じており、日本語指導が必要な児童生徒」(文部科学省, 2017)
出典:文部科学省(2017) ※平成18年度〜平成28年度の調査結果をもとにIBS作成
出典:文部科学省(2017) ※平成18年度〜平成28年度の調査結果をもとにIBS作成
日本語のみで育った日本人、日本語以外を母語とする外国人、外国語のほうが得意な日本人……。
今後は日本の学校においても、さまざまな言語環境で育った子どもたちの存在が当たり前になっていくでしょう。
もしかしたら、教師や親から見て、または、あるテスト結果によって、母語も日本語も能力が不十分に見えるかもしれません。そのようなときに、教師や親が「この子はセミリンガルかもしれない」、「セミリンガル問題」などと発言することは不適切です。
ましてや、その用語を子どもたちが使うようになってしまったら、バイリンガルのクラスメートに対する偏見・差別やいじめにも繋がりかねません。
育った環境は、人それぞれです。日本語のみで育った人、複数の言語環境で育った人、都会で育った人、大自然に囲まれて育った人、きょうだいがたくさんいる人、一人っ子、母子家庭や父子家庭……。
そして、言語に限らず、もっている能力も人それぞれです。「こうでなければならない」、「こうあるべき」といった大人の固定観念や社会的圧力は、子どもたちの心に影響し、ときには偏見・差別やいじめに繋がり、ときには子どもの成長や学校生活を妨げます。
日本に住む人々の使用言語や文化的背景が多様化すればするほど、「セミリンガル」という差別的概念を含む用語は気軽に使われるべきではないのです。
Alora, L., Kunnas, N. & Winsa, B. (2011). Meänkieli in Sweden: An Overview of a Language in Context. Working Papers in European Language Diversity 6. European Language Diversity for All (ELDIA).
https://phaidra.univie.ac.at/o:103155
MacSwan, J. (2000). The Threshold Hypothesis, Semilingualism, and Other Contributions to a Deficit View of Linguistic Minorities. Hispanic Journal of Behavioral Sciences. 22(1), 3-45.
http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/summary?doi=10.1.1.711.4502&rank=2
Salö, L. & Karlander, D. (2018). Semilingualism: The life and afterlife of a sociolinguistic idea.
http://kth.diva-portal.org/smash/record.jsf?pid=diva2%3A1262943&dswid=1340
Shin, S.J. (2018). Bilingualism in Schools and Society.
http://105.235.201.125/Linguistic/Bilingualism_in_Schools_and_Society.pdf
宇都宮裕章(2014).「ダブルリミテッド言説に対する批判的論考」.『静岡大学教育学部研究報告(教科教育学篇)』.45, 1~13. 静岡大学教育学部.
http://doi.org/10.14945/00007864
坂田麗子(2004).「セミリンガルの兆候のある JSL 児童生徒の特徴とその対応:I市にあるペルー人学校での日本語指導を通して」. 『年少者日本語教育年少者日本語教育実践研究』. 3,47-56.
http://www.gsjal.jp/kawakami/dat/yjis0306.pdf
中島和子(2016).「完全改訂版 バイリンガル教育の方法」. 東京:アルク.
文部科学省(2017).「帰国・外国人児童生徒等の現状について:日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査」.
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/genjyou/1295897.htm