日本の子供たちが、英語を身につけて ミライに羽ばたくために。
2022.06.14
英語教育においては、異文化理解も重要な課題になっています。しかし、文化の違いを知る、というだけで終わってしまい、その違いをどのように受け止めるか、どのような考え方・姿勢で異文化に接するか、といった実際の場面を想定したところまで踏み込んで活動している授業はまだ少ないのではないのでしょうか。
そこで今回は、子どものころから世界6カ国で教育を受けてきた経験を活かして多様なアクティブ・ラーニングを提案するキリーロバ・ナージャ氏にお話を伺い、異文化理解教育のあり方について考えます。
【目次】
―ナージャさんは世界6カ国で教育を受けてきたとのことです。何歳のときにどの国に住んでいたか、詳しく伺いたいです。
生まれは、レニングラード(現ロシアのサンクトペテルブルク)です。小学1年生の途中で日本の京都へ行き、その1年後にイギリスのケンブリッジで半年、フランスのパリで半年、日本の東京で1年、アメリカのウィスコンシン州で1年、再度東京に戻って1年くらい、というふうに小学生時代を過ごしました。
中学生のときは、13歳〜14歳はカナダ、3年生の2学期の途中からは日本の札幌です。高校は名古屋の学校に3年間通い、東京の大学に進学してからはずっと東京近辺に住んでいます。
―ナージャさんのご家族は、どのような経緯でさまざまな国に住むようになったのですか?
理系の研究者だった両親の仕事の関係で、違う国を転々としていました。当時のロシア(ソ連時代)では国外に出ることが難しかったので、両親は「海外の資本主義の国はどんなところなんだろう」という興味もあったみたいですね。
ですから、毎年のように違う国に移り、両親が勤務する大学がある都市に住んで、現地の学校に通っていました。まったくそこの言語を話せない状態で学校に行き始めて、覚えたころには別の国に行くので大変でしたが、小学1年生の終わりからそうだったので、私にとっては普通のことでした。むしろ、学年が変わったのにまだ同じ学校にいる、という経験を初めてしたときは、すごく違和感がありましたね。
―ナージャさんは広告会社のコピーライターとして大きな活躍をされています。広告関係のお仕事に就いたことは、いろいろな国で教育を受けてきたことと何か関係していますか?
ソ連時代のロシアは社会主義なので、基本すべてが国営です。どんな商品が売れてもその利益は同じところに行くので、宣伝の必要性がなく、いわゆる「広告」は存在しませんでした。
ですから、日本で初めてテレビCMを見たときには、すごく衝撃を受けました。日本語がわからないので、テレビ番組の内容はわからないのですが、広告は意味を理解することができます。テレビCMは、私にとって娯楽の一つでした。しかも、CMのものまねを学校で披露すると、みんな笑ってくれるんです。
どの国に行っても、テレビCMは、言語がわからなくても楽しめて、学校のみんなを笑わせることができました。そういう広告への親しみが自分の中でずっと残っていたのかもしれません。
あと、海外を転々としていたことがきっかけで、各地の学校でサバイブする(なんとかやっていく)ためには、大変なことをどうポジティブに変えて乗り切るか、というアイデアや工夫を考える必要性を感じていましたし、そういうことを考えるのも好きでした。アイディアを出すことが好きかもしれないということに気づいたんです。
ことばの面では、ずっとその国に住んでいる子たちのほうが表現は豊かだったりします。でも、自分の経験やそこから生まれた発想を使えば、現地の子たちと対等に活躍できることに気づきました。
みんながしたことのない経験やみんなが思いつかない発想を周りに共有して新しい視点に気づかせたり、あちこちを転々としていたせいか飽きっぽい性格の私にとって、いろいろな業界や企業の商品を扱える広告代理店の仕事は肌に合っていたのかもしれません。
―「アイデアを出すのが得意」ということは、海外を転々とする経験のなかで気づいたんですね。
そうですね。ロシアの学校に通っていたころは、わりと周りに馴染んでいたほうでしたし、大変な状況をなんとかするためにアイデアを出す必要性もありませんでした。
でも、小学2年生の終わりごろ、日本の京都からロシアに帰国したとき、ロシア語(国語)の力がみんなに追いついていませんでした。そのときに作文の授業があり、ロシア語は文法もスペルも難しいので「これでは0点になってしまう!」と焦りました。
そこで、すごく変な物語を書けば、文法やスペルが間違っていても「内容がおもしろい」ということで合格点をもらえるかもしれないとひらめいたんです。結果は、内容は100点、文法・スペルは0点。「合わせれば50点だから合格だ!」と思い、普通にやったらできないことも、何か違うやり方で工夫すれば乗り切れたりほめてもらえたりすることに気づきました。
それ以降は、ほかの国の学校でもそういうふうに工夫することでピンチを乗り切れたときもありました。本当はみんなに負けないくらい勉強やいろいろな経験をしてきていて、その国で勉強している時間数が少ないからできないことがあるだけなのに、そこだけを見て「この子は勉強ができない」と先生に思われたり活躍できなかったりするのが悔しかったんです。私は人見知りですが負けず嫌いなので、みんなとは違う私の努力と良いところに気づいてもらいたいという思いでいつも工夫していましたね。
―ナージャさんは、「電通総研アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」に研究員として所属されていて、教育関係のお仕事もされていますね。どのような経緯で教育分野に携わるようになったのでしょうか?
5年くらい前に、たまたま自分の経験を話す機会があって、自分にとって普通だった人生が、ほかの人にとってはすごくおもしろかったり参考になったりすることに気づきました。世界各国の教育の違いを研究している方はたくさんいらっしゃいますが、実際に体験した方は意外と少ないと思うんです。
そこで、各国で見たり感じたりしてきたことや、生きづらさを感じていた経験をいろいろな大人たち、子どもたちに伝えたいと考えるようになりました。また、工夫することでピンチを乗り切ったりするようなことを子どもたちが擬似的に体験できたら、物事の見方が少しでも変わるきっかけになるのではないかと思って、教育の仕事にも携わるようになりました。
子どもは、どこの国の教育が自分に合うかなんて考えることが普通はないですよね。一つの国で一つの学び方しか体験できないことがほとんどだと思います。でも、いまの学び方が合わなかったときに、世界にはいろいろな学び方があることを知っていたら、「じゃあ、こっちの学び方でやってみよう」とか「これを試してみよう」とか工夫できます。
良いところ、足りないところは、それぞれの国にあります。その教育が良いかどうかは、子どもによっても違います。そのときの時代背景や、どういう子どもを育てたいかという目標によっても、合う教育、合わない教育は変わってきます。
日本の教育は素晴らしいところがたくさんありますし、各国の教育には違いがあるだけで正解はないので、どの部分はいまのままでよくて、どの部分は新しい方法を取り入れたほうがいいか、ということを考えるきっかけを与えられたらいいですね。
ナージャさんの故郷サンクトペテルブルグ
―ナージャさんは小学校低学年という年齢から、さまざまな文化を体験されています。中学生や高校生ではなく、小学生のころから異文化に触れることには、どのような価値があると思いますか?
小さいころから異文化に触れてきたことの一番の価値は、ある程度自分が何者なのかわかるようになったことですね。
小学校低学年のころは、ただ自分が人と違うということしかわからなかったけれど、小学校高学年くらいになると、何が違うのかを言語化したり、自分の主義・主張は何なのか、それは家族や国民性による影響なのか、それとも個人の違いなのか、ということを考えたりすることが増えました。
たぶん中学生になると、自分が住んでいる場所などの常識やたがにはめられていて、それが当たり前になっているけれど、小学生であれば、何が常識なのかということを初めて考える子どもが多いと思います。
そのタイミングで自分とは全然違う考えや文化をもっている人に触れたり、そういう人たちとそれぞれの考え方について意見交換や議論をしたりする経験は大切です。
自分が思っていることがすべてではなく、いろいろな考え方ややり方があります。そこに正解はなく、その人やその状況にベストなものがあるかもしれませんし、自分にとってベストだと思っている考え方ややり方も実は違うかもしれません。
こういうことは、自分とは違う人たちに会ってみないとなかなか知ることが難しいですが、早めに知ることで、その後の人生や生き方の選択肢の幅が広がっていくと思います。
―ナージャさんは、その国の学校のルールや先生の考え方になるべく従ったり、友だちに合わせたりしなければならない場面も多かったと思います。自分が何者なのか、というアイデンティティは、どのように形成されていったのでしょうか?
私は、一度は行った先のやり方に合わせてみよう、と小学校中学年から決めていました。「違うからいやだ」と言って合わせないでいると、自分に合うか合わないかがわからないからです。試してみると、「これは良いかもしれない」と思うものもあれば、「これは自分には合わない」と思うものもありました。
例えば、自己主張をたくさんしなければならない国は、自分には合わないと思いました。その考え方は理解できるけれど、自分のキャラクターではないんです。最初は自己主張ができないことを欠点のように感じて「私もやらなきゃ」と思っていました。だいぶあとになりますが、自己主張は自分の良さではない、自分の良さはほかにあってそこを伸ばせばいい、と思うようにすると楽になることに気づきました。
こういうふうに、いろいろなことを試していくうちに、歩み寄ってもいいと思えるもの、自分の考え方ややり方を守りたいものがだんだんと見えてきましたね。
あとは、毎年のように環境が変わるので、自分の軸がないとやっぱり疲れてくるんです。行く国が変わるごとに無理やり周りに合わせて、まるでカメレオンのように毎年違うキャラクターになりすます、ということをしていると、どこかで「これは違うな」と感じて、自分の軸をもつことによって自分を守れると気づきました。
はじめから相手の考え方ややり方を「いやだ」と拒否して壁をつくってしまうとコミュニケーションはうまくいきませんが、譲れること、譲れないことのバウンダリー(境界線)をつくって、一度試してみて譲れないと感じたことに関しては「私はこうするからよろしくね」としっかり伝えれば、相手はいやがることも減るし、自分も楽になります。
私は、いろいろなことを試しながら、自分の軸を探っていきました。ですから、まずは試してみないとわからないので、食わず嫌いにならないことは大切です。自分に合わないと思ったらやめればいいんです。
―まずは試してみることが大切で、それが自分の軸をつくることにつながり、結果的にお互いにストレスのないコミュニケーションができるようになっていったのですね。このようなプロセスには、親御さんのサポートが何かあったのでしょうか?
もちろん、ストレスはありました。でも、以前よりは少なくはなりましたね。
親には、いろいろなことを聞きました。
例えば、フランスでは外国人クラスにいたのですが、クラスメートの出身国は10カ国弱くらいでした。すると、「これはこの国ではどうするの?」という議論になったときに、みんなフランス語が話せないながらも身振り手振りで「これが正しい!」、「それは絶対に間違ってる!」と主張して、それぞれ意見が異なることに気づきました。
「うちの国ではどうなの?」と親に聞いてみると、当たり前だと思ってきたことが実は自分の家族だけのことだったり、生まれ育った国の文化だったりしました。ほかの子たちもそれぞれ親に聞いてきて、子どもながらのみんなの主張の背景がわかってくると、「なるほど!」と思えました。
こういうふうに、自分の意見や主張の背景にあるものを親に聞いて深掘りすることは、ロシアにいたら大人になるまで経験しなかったと思います。母国の外に出ることで、故郷について知る機会が増えましたね。
―親御さんには、学校で感じる戸惑いや苦労についても話していたのでしょうか?
親にはあまり報告していませんでしたね。特に小学生のころは、違和感や困っていることがあっても、その体験を具体的に言語化して説明するのが難しかったんです。親は、いま私が経験していることを経験したことはないから。
ただ、両親は私に対して過保護ではなく、良い意味である程度野放しにしてくれたと思います。母親は子どものころに転校を何度かしたことがあるので、「最初は大変だけどどうにかなる」というポジティブ・シンキングの持ち主。「本当に好きなことややりたいことは、努力や工夫をすれば絶対にできる」という応援はありました。だから、「私はがんばればできるんだ」と素直に思えて、自分でいろいろと試行錯誤できていたのだと思います。
たぶん、「学校でいじめられていない?」、「友だちはできた?」というように、親が心配していたら「そっか、そういうこともあるのか」と私も心配になってしまったかもしれません。親がポジティブな考えで見守る姿勢でいてくれたことは、すごく良かったと思っています。
―では、「違い」をどのように捉えたらいいか、ということについて考えたいと思います。まず、ナージャさんは、さまざまな国で違う価値観、違うルールに出会ったとき、どのような戸惑いや葛藤がありましたか?
初めての海外への転校は、日本の京都でした。当時は小学1年生だったのですが、きょうだい二人が離れてサバイブするのは大変だろう、という両親の考えで、弟と同じ保育園に入ることになりました。
日本語はまったくわからないし、先生が英語で話そうとしてくれても、その英語もわからないから、それが英語なのか日本語なのかもわかりません。食事も、魚やお米、味噌汁など、ロシア人の私にとっては苦手なものばかりでした。「何これ!どうしよう!」と思っても、それをことばで表現することもできず、いま振り返るとすごくストレスを感じていたと思います。
小学生なのに保育園に通うということでプライドも傷ついて、毎日いたずらばかりして、暴れまわっていました。そういう方法でしか自分の気持ちを表現することができなかったんですね。
でも、「何もしなくていいからただ観察すればいい」という考え方にだんだんシフトしていきました。違いを「いやだ」と思うことはあっても、毎日100個の「いやだ」に囲まれてしまったらどうしようもありません。「どの『いやだ』が一番マシかな?」と違いに向き合ってみたり、「どんな違いがあるんだろう」、「どうして違いがあるんだろう」と考えながら観察したりするようになったら、違いのおもしろさに気づきました。
―その後、どのように「違い」を捉えるようになりましたか?
先ほどお話しした、作文でうまく乗り切った経験などから、「違いは必ずしも悪いものではない」と思うようになりましたね。
何か違いがあるから工夫をするんですよね。「みんなはこうだけど、自分はこう。これをやる人はほかにいないから、私がやってみたらおもしろがってもらえるかもしれない」と思って工夫につながります。
もちろん、意見の違いで友だちとケンカになったこともありましたが、そういう経験を重ねて、違いとどういうふうに付き合えばいいか、ということを徐々に学んでいきました。
また、毎年違うものに触れるうちに、違いは良し悪しではなくて、単に「違う種類の何か」なんだと思うようになりました。何が正しいかは状況によるし、同じ状況であっても人によって判断は違います。
ですから、自分の意見を押しつけず、相手の意見を否定せず、「どうしてそう思うのか」という、違いの奥にある理由を考えることが大事だといまは思っています。違いに正解はなく、自分が思っていることが必ずしもベストだとは限りません。いろいろな意見があるからおもしろいということに気づいて、違いを自分の武器や個性にすることができるようになったのが中学生くらいのときですね。
―違いをポジティブに捉えられるようになると、違いがストレスではなく自分の武器や個性になっていくのですね。
そうですね。ストレスはもちろんあります。でも、みんな違っていて当たり前だと考えて、その違いを探るおもしろさに気づくと、違いから生じるストレスは減ると思います。
語学もすごく似ています。わからないことばがあるのは当たり前だと思って喋るか、わからないことばが気になって喋らないかで、語学学習は変わってきますよね。全部わかることを前提にしてしまうと苦しくなってしまうけど、全部わからないことが当たり前だと考えれば気が楽になると思います。
また、周りと比較して自分に足りないものを補ったとしても、結局、「みんなと同じ」にしかなれません。でも、「違い」を個性だと思って育てたり磨いたりすると、ほかの人が見えないものが見えてきたり、ほかの人ができないことをできるようになったりします。それが社会人になってから武器になることもあるので、違いに気づくこと、違いをポジティブに捉えることは大切だと思います。
【取材協力】
キリーロバ・ナージャ氏(電通アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所 研究員/株式会社電通 Bチーム クリエーティブ・デイレクター)
<プロフィール>
ソ連・レニングラード(当時)生まれ。世界6カ国(ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、日本)の現地校で多様な教育を受けて育つ。株式会社電通にてコピーライターとして活躍し、国内外のさまざまな広告賞を受賞。2015年には世界コピーライターランキングで1位に輝く。学校教育でのアクティブラーニングに使えるノウハウを提供する「電通アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」研究員。世界各国で教育を受けた経験を活かし、日本の子どもたちが多様で豊かな発想を育むきっかけを提供する活動を行う。「ナージャの6ヶ国教育比較コラム」はキッズデザイン賞を受賞。考案した高校生向けのグローバルについて考える授業「グローバルの授業」はJICAグローバル教育コンクールで審査員特別賞を受賞。著書に「ナージャの5つのがっこう」(大日本図書)、「からあげビーチ」(文響社)、「ヒミツのひだりきクラブ」(文響社)がある。
■関連記事
Martin, J. N. & Nakayama, T. K. (2000). Intercultural communication in contexts (2nd edition). Mayfield Publishing Company.
岡田昭人(2015).「教育学入門 ―30のテーマで学ぶー」. ミネルヴァ書房.