日本の子供たちが、英語を身につけて ミライに羽ばたくために。
2018.08.06
2010年、サッカーのFIFAワールドカップ開催国として一躍注目を浴びた南アフリカには、11もの公用語があります。2018年2月、9年ぶりに政権交代となったことが報道されましたが、日本経済新聞によると、ズマ大統領の辞任演説は英語とズールー語を交えたものだったそうです(岐部, 2018)。
【目次】
計34の言語が話されている南アフリカには9つの州があり、すべての州がアフリカーンス語と英語の二つを公用語に制定しています。さらに州により、ズールー語など、そのほかの言語も公用語として使用しています(Simons et al, 2017)。
地図データ©2018 Google、INEGI
人口5,560万人(Statistics South Africa, 2016)のうち、11の公用語とそのほかの言語の使用状況は下表の通りです。ラジオ番組など、すべての公用語で提供されるものもありますが、全国新聞や学校教育、公的文書など多くの分野で英語とアフリカーンス語のみが使用されています(太田, 2013)。
また、民族ごとに居住地が分かれ、近代文化から離れた生活を送る農村部では、人口の約半分が英語やアフリカーンス語ではなく、主に母語を使って暮らしていると言われています(山田, 2005)。
出典:Simons at al. (2017) ※上記資料をもとにIBS表作成。
出典:Simons et al. (2017). ※上記資料をもとにIBS表作成
1590年代にアジアとの貿易を行う商社が国内に多く設立されたオランダは、1602年に各商社をまとめてオランダ東インド会社を設立しました(太田, 2013)。
1652年に南アフリカのケープを貿易船の食料補給地として植民地化すると、オランダの農民たちが南アフリカへ移り住んできます。その後、フランスから亡命してきたプロテスタント教徒、ベルギーやイギリス、ドイツからの移民、インドネシアやマレー半島から労働力として連れてこられた人々が加わり、さらに多民族化しました。
1790年代のフランス革命によるオランダ占領をきっかけに、南アフリカの統治国はフランスとなり、さらに1814年にはイギリスへと代わります。イギリス人に対し、ケープタウンを中心に農園経営などで暮らすオランダ人を中心としたヨーロッパ人たちは、ボーア人(現アフリカーナー)という独自の民族を形成し、アフリカーンス語を使用し、学校教育の指導言語として定めるようになります(The Commonwealth, 2018: Statistics South Africa, 2016)。
アフリカーンス語は、現在の南アフリカの公用語の一つです。オランダ語が基になっており、その語彙や文法にはマレー語やアフリカ諸言語、ポルトガル語などの各種ヨーロッパ語からの借用が見られると言われています。
元々は、オランダ人の農園で働く現地人がオランダ語の文法を簡略化して意思疎通のために使用したことが始まりですが、のちに支配側であるオランダ人も使用するようになり、アフリカーンス語と呼ぶようになりました。また、白人と現地人との間に生まれた「カラード(Colored)」と呼ばれる混血の人々もアフリカーンス語の母語話者です(Statistics South Africa, 2016)。
現在のアフリカーンス語は、英語とともに、すべての州における公用語、および初等・中等教育における指導言語であり、ほかの公用語と比べて優位の扱いを受けています(Simons et al., 2017)。こうした現状には、アフリカーンス語が、かつて南アフリカを支配していたオランダ人たちの間で使用が広まった言語だったことが背景にあります。
また、イギリスによる統治が始まると、オランダ人を中心とするアフリカーナーたちには、奴隷制度廃止による労働力不足やイギリス人との土地争い、イギリス支配への不満などの問題が生じました。1830年代、彼らは先住のアフリカ民族たちと戦いながら、南西海岸のケープタウン(下図7州都)から内陸へ進出し、内陸〜北東部(下図1〜4、6、9)へ複数の共和国を建国します(太田, 2013)。
彼らの大規模な移動は「Great Trek(グレート・トレック)」と呼ばれ、アフリカーンス語が南アフリカ全域で使用されるようになった要因のひとつだと考えられます。
英語は、ケープタウン(下図7州都)やヨハネスブルグ(下図3州都)などの都市部、南東部の州(下図8・9)に使用者が多く分布します。南東部の州(下図8・9)は、アフリカーナーの話者が比較的少ない地域です(Simons et al., 2017)。
アフリカーナーが内陸へ進出する時期には、イギリスも支配地域を広めようとしました。1843年、アフリカーナーが建国して間もないナタール共和国(下図9)を占領してアフリカーナーを内陸へ追いやり、1860年代からプランテーションにおける労働力としてインド人が移住してきます。この時期に南アフリカで英語教育が普及し、1865年、小学1〜2年生への英語教育が義務化されます。
※白地図専門店からの引用地図に番号を追記。 出典:三角形(2017). 白地図専門店.
ほかのアフリカーナーの共和国は、ダイヤモンド鉱山や金鉱が発見されたことにより、さまざまな国から移民が集まりますが、幾多の戦争の末、鉱山経営も土地もイギリスに支配されることとなりました。
イギリスによる全域支配は、1910年の「南アフリカ連邦」建国から、1961年にイギリス連邦を脱退して現在の「南アフリカ共和国」となるまで、約50年間続きます。支配領域を広げる前も含めると約150年間であり、オランダによる支配とほぼ同じ期間です(太田, 2013)。
イギリスによる全域支配が始まった際、アフリカーナーたちはアフリカーンス語を学校で教える権利を主張し始め、1924年、英語とアフリカーンス語の二つが南アフリカの公用語に制定されました。
南アフリカは、アパルトヘイトと呼ばれる、白人を優位とする人種差別の歴史が長いことでも知られています。1940年代に法制化されたアパルトヘイト政策は、全廃となる1991年まで約50年間も続き、現在もその名残が随所に見られます。
例えば、多民族国家における人口統計の場合、大抵は「〜人」や「〜族」といった民族・部族ごとの人口が発表されています。しかしながら、南アフリカは34の言語が話されている多民族国家であるものの、「Black African(黒人/先住のアフリカ人)」、「Colored(カラード/白人と非白人の混血)」、「Indian or Asian(インドまたはアジア系)」、「White(白人)」と、人種で分類して調査しています(Statistics South Africa, 2016)。
この分類はアパルトヘイト時代の「人口登録法」で定められたものであり、現在は撤廃されているものの、その後に制定される、あらゆる人種差別的な法律の基になりました(佐藤, 2014)。
※民族は出自や言語・文化などにより分けられますが、人種は身体的特徴や生物学的要素で分けられます。人種分類は18世紀後半から欧米で発達した考え方であり、黒人への偏見や差別にも影響を及ぼし、現在は、分類方法としては学術的にも否定的な見解が多くみられます(竹沢, 2002)。
参考:Statistics South Africa (2016). Community Survey 2016, Statistical release P0301.
http://cs2016.statssa.gov.za/wp-content/uploads/2016/07/NT-30-06-2016-RELEASE-for-CS-2016-_Statistical-releas_1-July-2016.pdf
1910年にイギリス自治領となってからは、南アフリカにおいて少数民族であるイギリス人が、多数派である先住のアフリカ人や、白人と非白人との混血、インド人など非白人の人々を差別により支配しようとしました。非白人は参政権が認められず、土地の所有、居住地、教育、公共施設利用などが制限され、こうした人種による差別・隔離・分離が1948年に政策として合法化されます。
1970年代からはアパルトヘイト政策への反対運動は過激化し、警察との武力衝突などにより、子どもや多数の若者を含む約600人もの南アフリカ人が命を落としたと言われていますが、政策が全廃されたのは約20年後の1991年でした(太田, 2013)。
その後、1994年からマンデラ政権の教育改革が始まり、英語とアフリカーンス語を含む11言語を公用語とし、下記の通り、母語を学校で教える、という政策が打ち出されました。
<小学1・2年生>
一つ以上の言語(主に母語だが、親が同意すれば別の言語でも可)を学ぶ。算数とともに成績が悪いと進級できない。
<小学3年生〜>
さらにもう一つの言語を学ぶ。3・4年生は、算数とともに成績が悪いと進級できない。5〜9年生はいずれかの言語、10〜12年生は両方の言語の試験に合格しなければ、進級できない。
出典:村田(1998) ※IBS要約
この教育改革により、すべての国民が母語+英語、母語+アフリカーンス語など、二つの言語を選択して学ぶようになりました。先住のアフリカ人にとっては、奴隷として働くための言語教育しか受けられず、母語を十分に学べなかった時代、人種差別教育により英語などを十分に学べず、アクセスできる情報や社会的地位が限られた時代を経て、学ぶ言語を自由に選べるようになったことは植民地支配や人種差別から抜け出すことの象徴だったと考えられます。
南アフリカでは、「One Nation, Many Languages(一つの国、多くの言語)」をスローガンとする汎南アフリカ言語委員会(PanSALB)が多言語社会を促進する活動を行っています。PanSALBの主要な目的は、下記の通りです。
法律で11の公用語が制定されているものの、実際には11言語すべてが平等に扱われているわけではありません(Pan South African Language Board, 2017)。
同委員会は、アフリカーンス語や英語と比較すると、国民の大多数を占めるアフリカ系民族の諸言語が南アフリカの主流言語から外れ、特に英語が圧倒的に優勢であるという状況を問題視しています。実際、2017年3月には、国内すべての裁判所において裁判内容は英語のみで記録されることが決議されました。
同委員会は、全国民が司法制度を利用する権利を奪う可能性があるという懸念を示し、さらに、国民が母語で発言できるよう、裁判官の任命条件には多言語能力を加え、英語やアフリカーンス語のみでなく、ほかの公用語やアフリカ諸語も学ぶべきであると主張しています(Pan South African Language Board, 2018)。
裁判所での言語使用に関する南アフリカの問題は、日本にとっても決して他人事ではありません。日本の法律には「裁判所では、日本語を用いる」という条文がありますが(齋藤, 2006)、当然だと感じる日本人は多いでしょう。
しかしながら、日本の裁判所における言語使用についてフィールドワーク研究を行った札埜(2011)によると、法廷で証言する人が方言話者の場合、弁護士や検察、裁判官から標準語で質問されると、普段話している言葉ではないために緊張が高まり、「いっそう考え込んでしまって、なかなかスムーズに答えが返ってこない、あるいは、答えが本人の言葉ではない答えが返ってきたりする」と述べる弁護士がいたそうです。
例えば、ある裁判では、方言で話す原告に対して標準語で話すよう裁判官が注意したところ、「方言が理解できない裁判官には、なぜ裁判を起こしたのかという自分の心を理解することはできないはずだ」と原告が反論したそうです。また、原告が話す沖縄語(ウチナーグチ)を裁判官が理解できず、「『日本語』は標準語のことであり、地方の方言は含まれない」と説明のうえ「日本語」で話すよう裁判官が注意した裁判もありました。この裁判では、のちの公判において、法廷での沖縄語使用を認めるかどうかも争点に加わっています。
このように、母語は、自分の考えや感情を正確に表現するための言語でもあります。そして、あらゆる場面で自由に言語を選んで使えるかどうかは、人権やアイデンティティにも関わります。
標準語と方言でさえ、南アフリカと類似する問題が発生していることから、日本に在住する外国人が増加するにつれて、政府や裁判所などの公的場面で働く人に対して複数の言語を使える能力が求められる可能性が高くなると推測できます。
多言語能力は、「多言語を使える能力」というだけでなく、「多様性を認める姿勢」でもあるのです。外国語を身につけようとするとき、「自分のために」と同時に「相手のために」という視点をもって学んでみると、新たな意義を発見できるかもしれません。徴だったと考えられます。
Pan South African Language Board (2017). Annual Report for 2016-17.
http://www.pansalb.org/annual%20report.html
Pan South African Language Board (2018). Media Release.
http://www.pansalb.org/media%20release.html
Simons, Gary F. and Charles D. Fennig (eds.) (2017). Ethnologue: Languages of the World, Twentieth edition. Dallas, Texas: SIL International. Online version:
Statistics South Africa (2016).
http://cs2016.statssa.gov.za
Statistics South Africa (2016). Community Survey 2016, Statistical release P0301.
http://cs2016.statssa.gov.za/wp-content/uploads/2016/07/NT-30-06-2016-RELEASE-for-CS-2016-_Statistical-releas_1-July-2016.pdf
The Commonwealth (2018). South Africa.
http://thecommonwealth.org/our-member-countries/south-africa
太田淳(2013).「【第5回】オランダ東インド会社からみた近世海域アジアの貿易と日本」. nippon.com. 一般財団法人ニッポンドットコム.
https://www.nippon.com/ja/features/c00105/
岐部秀光(2018).「南ア、資源頼みのツケ、ズマ大統領辞任、ばらまきで経済失速」. 日本経済新聞. 2018年2月16日朝刊. 日経テレコン.
齋藤陽夫(2006).「法律と国語」. 法制執務コラム. 参議院法制局.
http://houseikyoku.sangiin.go.jp/column/column068.htm
佐藤千鶴子(2014).「南アフリカのカラード・コミュニティにおける先住民アイデンティティの表出」. The Ritsumeikan journal of international studies. 26(4), p.647-665. 立命館学術成果リポジトリ.
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/5379/1/IR26_4_satoc.pdf
竹沢泰子(2002). NHKラジオ第一放送 2002年10月11日 放送内容. 京都大学人文科学研究所.
http://oldwww.zinbun.kyoto-u.ac.jp/conference/media.html
札埜和男(2011).「裁判所における方言」. 社会言語部門主催講演会資料. 東京外国語大学 国際日本研究センター.
http://www.tufs.ac.jp/icjs/activityreports/2011/20111021.html
村田翼夫(1998).「南アフリカ共和国における教育の現状と教育協力・援助の必要性」. 国際教育協力論集. 1(1), p.111-124. 広島大学 教育開発国際協力研究センター.
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/wp-content/uploads/publications/Journal1-1/1-1-10.pdf
山田肖子(2005).「民主化と多文化共生 ─アフリカにおけるシチズンシップ教育への示唆─」. 国際教育協力論集. 8(2), p.75-87. 広島大学教育開発国際協力研究センター.
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/wp-content/uploads/2014/03/8-2-7.pdf